アートイベント

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先日の教養バラエティー番組『日曜日の初耳学』の人気企画「インタビュー林修」には飲食店プロデューサー稲田俊輔氏が出演。その最初の話題「カツカレーが嫌い」では以下のようなユニーク視点から内容でとても面白かった。
日本人はカレーを見たら何をのせたくなる民族。のっけるもののうち、何がいいかと言えばカツが王様になる。そこで「大好きなカレー」、「大好きなカツ」が合わさったら、(幸福度は)1+1=2とか3とか4にもなりそうなのに、実際には1.5くらいまでしか上がらない。つまり、カツが本当に美味しい店は(必要がないから)最高に美味しいカレーを作れない。同じようにカレーが美味しい店はカツを揚げる技術を持っていることは非常に少ない。だから、1+1=2にならない料理。カツとカレーは別々に食べたい。カツカレーが好きじゃなくて、カツとカレー好きでいいのだ。
ちなみに私はこのカツカレー論を見ているうちに、近ごろやたら「アート」と「イベント」を無理矢理に結び付けて、観光振興や地域おこしによく利用されていることを思い出した。アートは芸術性が高くなると一般の人には受けないため、ほどほどの作品レベルでなければ多くの人たちが集まる可能性は低くなる。したがって大多数の人に受けるアートばかりが重宝され、インパクトの強い先端的なアートが脇に追いやられてしまうのなら、本当の意味でアートに親しむためのイベントとは言えない。アートイベントは個性的で尖ったものと、みんなが好きなものを、バランスよく展示することが大切になるのだが、それは矛盾が生じやすくなるため、そう簡単には上手くできないだろう。

どう伝えるか

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先週末、NHK Eテレ SWITCHインタビュー 達人達は、「おいしいをどう伝えるか」と題して、ドラマ 孤独なグルメで仕事の合間に食事を味わう主人公のサラリーマンを演じる俳優 松重豊氏と、食雑誌 ダンチュウの名物編集長 植野広生氏のお二人が対談。食にこだわったグルメ情報にとどまらず、普通においしいと言われるものの奥深さを独自の視点で語り合った。
その中で松重氏の「役作りは基本的にしない。コックさんで役者を例えるのなら、俺は最高の素材で最高の料理が作れると公言し、最高の素材以外の時はやりたくないという人より、今できることで程よく料理できる人の方が面白い。そういうハプニングは常にあるから、予定調和にならなかったことに動揺しないことが一番。出てきたものを率直に感じるというのか、その時々の流れでいけばいいと思えるようになった」という言葉が印象的だった。
つまり、自分ができない理由を探して、それでやらなかったら、失敗することはないだろう。こういう条件でなかったらできないとすれば、苦労を背負い込むことを回避できる。だけど、自分に都合のいい仕事ばかり選んでいたら天職と出会えることはない。新しい可能性を伸ばして、独自の世界を創るために、強い意欲を持つこと。さまざまなことをチャンスだと受け入れ、心で感じるものを積み上げながら、自分らしさを掴んでいけばいいのだ。

新発見

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「キノコは千人の股をくぐる」という名言がある。この場合のキノコとは松茸のこと。いわゆる松茸狩りに行った時、すでに千人が探した後だったら、もう松茸は残っていないと考えてしまうだろう。しかし、そこへ千一番目に行った人が偶然見つけることだってある。つまり、多くの人が熱心に同じものを隅々まで探し求めたものでも、誰にも気づかれずに、目に入らないまま残っているものは意外とたくさんある。だから、競争相手が多い業界だったとしてもあきらめないで、徹底的に探し続けることが大切だという意味を指す言葉だ。
今から四半世紀前に紹介されて知り合った若者がいた。陶芸を修行しているという。そこで私が主宰したグループ展に出展してもらったところ、その会で講演で来られたキューレーターに、「彼は天才肌。土の表現と相性がよくて、単純なことをしても見どころがある。上手くいったら、神の手を持つと言われるかもしれない」と絶賛された。ちなみにその方の専門はアジアの現代美術で、その分野では第一人者として有名だが、陶芸についてはまったくの門外漢。だけど、今日の彼の作品のストロングポイントになっている。それらを活かして、誰にでもできそうなキノコを、誰にもできない独創的なキノコとして、高く評価されているのだから、お見立てはめちゃくちゃ正しかった。これも先天的なものプラス、地道な研究と努力を惜しまなかった賜物だ

大和魂

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「ものを見るのは精神であり、ものを聞くのも精神である。眼それだけで見ようとせず、耳それだけで聞こうとしない」というのは、日本のサッカーの父と称するデットマール・クラマー氏の名言である。

1960年、東京五輪のために来日したクラマー氏は、基本の基本から徹底的に教えるだけではなく、サッカーの文化と哲学を日本へ運んできた名将。いつも選手たちのモチベーションを高めるために、「きちんと基礎を固めてこそ、その上に立派なものが建つ。基本がしっかりしていないものは、いつかは崩壊する」や、「上達に近道などない。そこには不断の努力があるだけである」など、心を響かす熱いメッセージを数々残している。

これらの言葉はすべて美術家に対しても十分使えるものばかり。やはり、人がやることは心技体が豊かでなかったら、素晴らしいパフォーマンスを発揮することはできない。つまり、自らやる気になって熱心に学んでいく。このレベルに達したいと発憤することで、あらゆる感性は研ぎ澄まされて、より深く真理を追究できるだろう。だから、なにごとも必要なのは実力よりもやる気が肝心。一度、自分のやるべきことだと決めたら、そのことにひたむきに取り組み、向上への意識を持ち続けることが大切になるのだ。

くすぐる

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先週、あるバラエティー番組にベテランお笑いタレントの小堺一機氏と関根勤氏が出演。キャリアの長いお二人の思い出話を中心に数々のエピソードが披露された。その中で二人の息の合った不条理なジョークのやりとりについて、「クラス会で小学校の友達と会うと小学生に戻るじゃん。そういう感じで、(二人が会うと)いっつも中学生に戻る、気持ちが」という関根さんの言葉に、私はあることを思い出して、手を叩いて頷いてしまった。

それは12年前、臼杵万理実さんと出会った頃に、絵を観せてくださいと言ったところ、彼女は天然であるため、幼児から大学生までの作品をいくつもの風呂敷にくるんで持ってきた。私はその行動にどうしても美術家になりたい気持ちの表れだと感心した。そこで予定時間をはるかに超過して丁寧にじっくりと観た。すると中学時代がピークで、どんどん絵を描く熱量が下がっていくことに気付く。

もちろん、技術的には進歩している。だけど、画面の迫力は低下する一途。とにかく暗い印象を与えるものが目立った。その理由は簡単。ただ、熱量が足らないだけ。夢や希望を見失っているから、作品に情熱が感じられない。臼杵さんらしさを感じられなかったのだ。それはそれでマイナスではない。この時に苦しみを味わったことで、地道に努力する姿勢が身についていった。ちなみに今現在の彼女は、創作する際には小学生のように伸び伸びしている。童心に満ちた好奇心に溢れた感覚で描いている。つまり、一番活き活きしていた時代にタイムスリップしているのだ。そんなことを何気ないテレビ番組で気付くことができた。さすがコサキンは感性をくすぐる名人。臼杵さんも作品でほのぼのしくくすぐってくれる感性がいい!

我以外皆我師

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その人が好きだという美術作品についてはできる限り口出ししない。なぜなら、人の好みはさまざまであるのが当たり前。こちらの価値観であーだこーだ言ったところで、言われた方は面白くない気分になるだけ。金子みすゞさんの「みんなちがって、みんないい」という言葉のように寛容に接すればいい。

それよりも、自分で気が付かなかったことを知るチャンスだと捉えよう。この世はすべて多面的であって、自分の知っている一面だけで判断したら、それ以外の面はわからないまま。だから、興味や関心を抱くべきものだと考えて、じっくりと眺めていくこと。人は必ず独自性のある感覚を持っている。あらゆることがわかってると思い込まずに、辛抱強く観察しながら豊かなセンスを磨くのだ。

つまり、いろんな人たちに自分の知らないことを教わるつもりで謙虚に生きよう。知らないことは恥ずかしいことではない。それぞれの知恵や知識を出し合って、日々を丸く収まるように創意工夫すればいい。どんなに凄い才能の持ち主でも、たった一人の力で生きることはできない。いろいろな人たちにヒントをもらいながら、再発見を学びにすることが大切にしていこう。

徹する

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美術家を目指そうと思っているのなら、そこそこの実力があったとしても、人と変に比べようとしたり、無意味に競い合ったりしないで、誰もやらないような領域を見つけて、自分のペースでゆっくり活動していくことが大切だ。

そして、作品について必要以上にアピールするよりも、才能を信じてこつこつと努力すること。目立つパフォーマンスをすることが心地よいと同じように、マイナーな活動だからこそ創り出せるチャーミングな世界もある。言い換えれば、先進的な表現でしのぎを削る人たちがやらないものにこそ、その人にしかできない大きなチャンスがあるのだろう。

つまり、創作人生とは一番後ろ辺りからゆっくりと行けばいい。個性的な作品に至る近道なんてあり得ない。どこまでも情熱を持ち続け、夢と希望で未来を照らしながら制作していく。この如何にも地道なルーティンの繰り返しが、実は独創性のある世界観へ向かうための王道なのである。