ただひたすらに進む

「寺があって、後に、坊主があるのではなく、坊主があって、寺があるのだ。寺が無くとも、良寛は存在する。若し、我々に仏教が必要ならば、それは坊主が必要なので、寺が必要なのではないのである。京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統じゃ微動もしない」というのは坂口安吾の言葉である。
ただいま中也記念館で開催中の企画展「坂口安吾中原中也――風と空と」のおかげで、人生で初めて安吾の作品と向き合う。とにかく、私の心はスマッシュされ続ける。その中でもこの言葉の持つインパクトは本当にデカイ。それは県美術展を観た方から「県美展に入賞入選した人は美術家だと言えるのですか?」と質問されることがある。これこそが上記の安吾の言葉の真理。つまり、県美展の審査結果に関わらず、美術家だと言える人は、何があっても美術家なのだ。評価されたことがきっかけで美術家への道を突き進んだ人は多い。しかし、実際に美術家として生き残っている人は、その結果に一喜一憂することはない。何があっても独創性を追究して生きる覚悟を持っている。
 ちなみに、10年前くらいに繊細精密な鉛筆画家で知られる故・吉村芳生さんに、私は話しの流れから「画家ですか?」と質問したことがある。その理由は自称画家を名乗る人がその頃から増えてきた。夜郎自大という言うべき目に余る面々に、何か身の丈を知らせる言葉はないか迷っていた時だった。すると「さあ、どうかな~?」と軽く微笑んで答えてくれた。それは「馬鹿なことを聴くなよ」ではない。画家かどうかは自分で決めるものではないと表情で教えてくれた。やはりさすがだった。あまりにも堂々とした回答にしびれてしまう。本物の画家ならその作品が残っていくもの。安吾の言いたいことと同じ響きを感じさせられた。