船酔い

昨夕、山口情報芸術センターにて、中原中也賞を受賞した詩人で、アーティストとしても活躍中の青柳菜摘さんによるレクチャーパフォーマンスへ参上。詩集『亡船記』という航海によって発展した中国発祥の媽祖(まそ)信仰をきっかけに構想した、架空の航海日誌のような作品を、映像と文章を巧みに用いて、鑑賞者の想像力を刺激していった。

兎にも角にも子どもの空想から生まれる作り話のようなエキセントリックな世界。それをおとぎ話を楽しむように、現実離れした不思議さをただ肯定していくだけ。佐々木幹郎さんの著書に「詩の朗読は、つねに一回限りの身体的パフォーマンスであって、演劇に限りなく近い」という一節のように、青柳さんの創り出す不思議さを楽しめばいい。

やはり詩人は言葉によって集まった人たちの頭の中に絵を描くのだ。青柳さんは絵筆をペンに持ち替えても創造的な表現を生み出せる。それぞれの詩にふさわしい色で彩り、個性豊かな感覚で会場を包み込んでいった。なんてエキサイティングなパフォーマンスだ。思い生きりテンションが上がる。あまりにも酔いしれて船酔いしてしまった(笑)。

アクションあるのみ

若き美術家が自分を成長させたいという意欲を持つことは、創作人生の土台を築く上で非常に重要であり、具体的な行動と意識によって、それを実現するチャンスが生まれる。なぜなら、気力が漲ってくる時期であり、キャリアに投資する時間も豊富にあるため、この時期にどれだけ努力するかが、その後の人生に経験値の差を生むだろう。

とにかく、思い立ったが吉日。一にも二にもアクションあるのみ。積極的に行動することが成功への基本的な鍵になる。いわゆる成功するには、方法、タイミング、運など、さまざまな要因があるが、まず行動しなければ何も始まらないまま。どんなに小さなことだったとしても、行動するのとしないのとでは、やがて大きな違いになっていく。

昨年5月、旧市庁舎で行われたアートプロジェクト「ハシヲワタス」に新進作家5名と参加。0にはどんな数字をかけても0のままだが、1はどんな数字にも変化するように、0と1の違いは非常に大きい。みんなアートを求めて踏み出す。力をかけ合わせて創造へ挑む。意欲に溢れた切磋琢磨は成長を促す。それぞれが刺激し合い面白くなっている。

キャラクター設定

キャラクター設定という言葉がある。これは物語に登場する人物に命を吹き込み、読者や視聴者が感情移入できるようにするための重要な工程。それ故、設定をしっかり行うことで、キャラクターの言動に一貫性が生まれ、作品に深みと魅力をもたらしていく。

ちなみに中原中也はキャラ設定に成功している。酒を飲むと騒ぐわ、泣くわ、絡むわで周囲に迷惑をかけたエピソードに事欠かない。また、泰子を巡る三角関係に陥り、恋愛にエネルギーを燃やした日々は、数々の詩に影響を与えるなど、特徴が掴みやすい。

今の時代、たくさんの人が創作の世界へ挑戦するため、キャラ設定で他との差別化を図り、その人ならではの魅力としてアピールすることが不可欠である。自分らしさを求めて、様々な要素を盛り込みながら、自身の作風や表現で明確化することが大切なのだ。

中也が残した「芸術とは、自分自身の魂に浸ることいかに誠実にして深いかにあるのだ。芸術とは、自我を愛することの、誠実であることの、褒賞である」という言葉がある。内側の声に従って個性を鋭く磨くことで、キャラは立つのだと言いたいのだろう。

自由の実験室

岡本太郎は「芸術は見るだけではなく全ての人の作るものであり、自由な衝動のままに『勝手気ままに描ける』子どもたちだけでなく、『精神の皮が硬くなって』しまい、自分自身の『自由感』を忘れてしまった大人にも有効な、『自由の実験室』なのだと思いを語っていた。

このたびの行う「あの香りのピースを紡ぐ」は、そんな太郎の気持ちを鑑みた5人展。昨年5月下旬に旧市庁舎で開かれたアートプロジェクト「ハシヲワタス」で、当ギャラリーのブースで展示した5名は会期が始まるまで何度も話し合い、最善を尽くしてプランを練った。

アーティストは作品展が決まったら、あとはそれに向かって努力あるのみ。自分たちにしかできないことを、自分たちで探しながら挑戦していくだけ。素晴らしいひらめきは執念から生まれてくる。自由とは能力があると信じて行動できること。夢を共有して前へ進む力だ。

一歩踏み出す

「一歩踏み出す」とは、目的や目標に向かって新しいことを始めたり、着手していくことで、物理的な行動だけでなく、心の中での変化や成長を促すものでもある。いわゆる新しいことを始める際には、不安や失敗への恐れから「一歩踏み出す勇気」が出ないことがある。しかし、この一歩が自己成長や新たな発見につながる大切な行動になる。

私は中原中也記念館に通い出して、もうじき丸5年が経つ。それまではかじった程度で、知らないことだらけ。興味がないわけじゃないけど、入り口がわからず傍観していた。しかし、これではいけないと一念発起する。中也を最低限知るために重い腰を上げる。一歩踏み出したのだ。とにかく、展示内容が変わるたびに観ることをノルマにした。

その甲斐もあって、だんだん面白さに気がついていく。中也をどんどん知っていくうちに、私なりの中也がイメージできるようになり、テキスト に書かれた文章が立体的に感じ出した。要するに、どんな時も一歩踏み出し、果敢に挑戦していく、中也の情熱的な輪郭線が見えるようになった。とことん真剣に取り組める、永遠の少年はカッコいい!

再発見

どんな人でも見ているようで見ていないことが多い。身のまわりのことを注意深く見ているようで、実際には自分の関心や視点に基づいて一部しか見ていなかったりする。あるいは、見ているつもりでも本質を見落としている状態になっている。

例えば、リンゴが木から落ちることを目撃した人は大勢いても、「なぜ?」と考えて研究したのはニュートンしかいない。要するに、取るに足らない日常のなかに、まだ知られていない常識を覆す新常識が無数存在することに気付いた人は少ない。

美術家は、そんな一般の人たちが見落としやすいものを、固定観念や既成概念に縛られずに見つけ出し、作品に創り上げて、感覚を刺激しで教えてくれる。身の回りのわずかな現象を見て、これがどうなるかを想像して作品表現する才能の持ち主。

香月泰男が残した「単調とも言えるここ山陰の片隅の風物も、私にはモチーフ天国(大げさか)、春陽はいなかほど美しい。私はその中にいまいる」という言葉のように、何ごとも五感で感じでいけば、豊かな発見を楽しめる人生になるだろう。

アップデート

2012年8月、当ギャラリーとして初めて末永史尚君の個展を開催。パソコン画面に画像検索で映ったマチスやピカソ、尾形光琳などの画家の作品をモチーフにして、独特の技法で描かれた作品や漫画に描かれた背景の線を拡大して組み合わせた作品など、「自分でしか見つけられないものを描いて残したい」と語っていた。

当時、私は彼の作品について勉強不足で、上手く説明できるレベルではなかった。だけど、新しい世界が広がった感じで、それまでの価値観が揺さぶられ、新陳代謝を活発にしてくれた。要するに、個性豊かなアートに触れることで、自分自身が変わっていく。これまでなかった刺激によって、観ている自分が変わったのだ。

こうして美術を学ぶことの面白さを再認識する。人は誰でも自分の観方が正しいと思い込みやすい。ついつい知識や常識に捉われてしまって、それ以外の観方ができなくなる。だから、末永君の作品を観て、ハッとさせられて良かった。何かに気づくことは、成長していること。視点の広がることが進歩なのだと教わった。