被写体

近年、いろいろな画像をSNSなどによって、手軽に目にすることができるため、視覚的に表現するレベルは高くなる一方である。やはりあちらこちらにお手本になるものが多いと、知らず知らずのうちに参考にしては、インスタ映えと呼ばれるような、いい感じな写真が写し出せるのだろう。
ただし、それらはどこにでもあるものばかり。似たり寄ったりした表現になったりする。どうしても何かを参考にすれば、自分らしさを発揮することは容易ではない。例えいろんなパターンを習得したとしても、あくまでも人のふんどしで相撲を取るっただけで、へたに手を染めると宙ぶらりんになりかねない。
だから、独自性のある写真を撮りたいのなら、安易な手段に近寄ってはいけない。自分自身が撮影したものを直感で感じていくこと。とことん被写体を探し回って冒険してみよう。自分の被写体が見つかるまで、好奇心を羅針盤に歩き続ければいい。自分の感性に触れるものを大切にして、オリジナリティのある世界を表現しよう。

失敗は成功のもと

生とはプラスとマイナスの交錯である。だのに、人はプラスばかりくることを望みたがる。自分がやることなら上手くいって成功すると思い込みやすい。そもそも人間のすることなんか、最初から上手くいくことはまずない。例えば子供の頃に、自転車に乗ることができるまでには、何度も転んでは起き上がり、バランスの取り方を体が覚えて乗れるようになる。

いわゆる試行錯誤。何度も失敗を繰り返しいくうちに、難しいことでもできるようになっていく。要するに、失敗は成功のもと。失敗の中には成功するためのヒントが隠されている。その原因を探っていき、よく点をあらためてことで、成功へ近づくことができる。成功はたくさんの失敗の積み重ねの末の成果であり、失敗を恐れずに果敢に挑んだことが実ったのだ。

だから、失敗が成功の前段階である。そう思えば、失敗することは少しも怖くない。さまざまな試練で出会い、辛く苦しい目にあっても、あとはプラスの機会が待っていると考えてみよう。自分の力でマイナスをプラスに変えることができれば、どんな環境からでもやっていけるようなしぶとさが育まれる。それ故、コロナ渦で鍛えられた若者は期待できるはずだ!

愚直さ

若者の最大の武器と言えば、恐れを知らないことである。まだまだ勉強不足でいろんなことを知らないのは決して悪いことではない。余計なことを知ってしまうと、それによって悩みや迷いができたり、生きづらいと感じてくるから、知らぬが仏はあながち間違っていない。もちろん、知ることは大切なことだけど、それは知る内容によりけりで、なまじっかなことを知ると先入観や偏見になるだろう。

美術の世界の若者も同じことが言える。いろいろな情報を集めて、詳しく調べてみると、右を向いても左を向いても凄い人ばかり。これから先、何をやっても上手くいかないような気がしてくる。さらに美術家を目指すライバルの数は半端じゃない。夢を持って努力している人は無数にいる。こういう状況を冷静に考えてみれば、自分ごときに新しいことはできないと、絶望的な気持ちになってもおかしくない。

「愚直と笑わるるとも、終局の勝利は必ず誠実な者に帰すべし」という名言がある。この場合の愚直とは馬鹿正直のことで、いわゆる一途さを指す。その愚直さゆえに人から笑われることもある。しかし、最後にことを成し遂げるのは必ずそういう人だ。最終的に成功を得られるのはひたむきに取り組み続けた人の熱い思いは実る。だから、日々の行動すべてが創造力につながると若者らしく純粋に信じて可能性を求めよう!

セレンディピティ

セレンディピティとは、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。またはその能力を行使することを指す。ある目的に向かって、研究や実験などで行う最中には、なかなか成果が上がらないことが多い。しかし、その過程でまったく思いもかけなかった新しい知見とめぐり合い、上手くいけば、自分の頭の中で眠る未解決の考えと化合して、新しい発想が生まれてくることを言うのだ。
ところで、県立大4年生の川部那萌さんは、高校時代に自然の豊かさを記録に残そうと、デジカメで撮影し始めてみると、目で見た時に気づかない、不思議な空気感を発見して大感激した。そこで自分なりに表現しようと考えて、ひらめく直観を羅針盤しながら、美しいと感じるものを素直に写していった。
そんな川部さんの人生はセレンディピティそのもの。いくつも予想外の出来事が起こり、偶然が重なり合って実に面白い物語になっている。例えば、通っていた高校の近くの雑貨店に、都会の美術館を退職ばかりの元学芸員さんがいて、美術について学べたり、高3の冬休みで家族で買い物へ行った福岡市で福引で航空券が当たって、高校卒業後に東京へ遊びに行ったりなど、ドラマチックなこと次々に起きたのだ。

これも日常生活の中にあるものを大切にしているから。特別な場所ではなくても特別のショットはできるはず。小さな出会いを注意深く見つめて、そこにある小さな感動を大きく写し出そうとしている。その一期一会にこだわる美学は素晴らしい。このまま今日という日の美しさを表現していくのみ。常に創意工夫して最善を尽くそう!

我以外皆我師

私が20代の頃の同世代の人たちは生意気なタイプが多く、礼儀も作法もなってなくて、時には大風呂敷を広げては肩で風を切って歩いていた。ただし、本人からすれば無邪気そのもの。まったく悪意なんてものはない。少しだけ目立とうとしているだけで、ずうずうしいという自覚なんてない。要するに、社会は共存共栄で成り立っていることを理解していない。他の人の活動や活躍が見えていない、眼中に入っていないのだろう。

そんな人たちも世間の風に当たっていくうちに、少しずつまわりが見えるようになってくる。いろんな人たちと触れ合うことで、社会に対する認識が変化していく。そこで、自分よりすぐれた人の方が多いと悟れば、大人の階段の一歩目を昇ったのだと言えよう。まわりの人たちの個性や能力をよく知ることで、自分を高めるために必要なことがわかってくる。自分の足らないものを教わる気持ちになれば、人間的に成長するチャンスが増えていくはずだ。

だから、相手としっかりと向き合うために謙虚な姿勢で生きることが大切になってくる。敬語によってコミュニケーションすることが出来れば、上下関係がフラットに感じる空気が生まれて、お互いに本気モードの対話で集中することができる。例え敬語が上手く使えなくても、いつも頭を低くしていれば、高い所から金言が流れてくる。そういう風に考えて、聞く耳を持つことに心掛ければ、毎日は学びであふれている。

願わくば、我に七難八苦を与えたまへ

「男は敷居を跨げば七人の敵あり」とは江戸時代のことわざ。当時、男が社会で活動するときは、いつも多くの競争相手や敵がいて、いろいろと苦労があるという例え。今の世なら男ではなく、人にした方がいい。みんなそれなりに難儀なことを抱えている。それと意識していない苦労の種を含めれば、いつも身の回りには敵に囲まれているようなものである。

けれども、敵は味方よりも人を成長させる起爆剤になる。いくつもの試練に立ち向かうことで、さまざまなものが磨かれていく。しっかりした能力にするには、適当の不自由、不便、不満が必要不可欠。これらの厳しい敵がいるから、負けまいという闘志が湧いてくる。すぐれた好敵手は意思と努力を促進して、それがしばしば成功へ繋がるから実に面白い。

近年、佐々木範子さんは刺激的な人との出会いを求めている。仲良しこよしの味方を増やすより、好敵手として尊敬できる人と知り合い、創作意欲がメラメラ燃えるようにしていく。本物の美術家になるためには、火花を散らす間柄であっても、長い目で見れば、創造力を伸ばしてくれる味方になる。苦労人の佐々木さんはそんなメカニズムを本能で感じるのだろう。自分を向上させる敵のような存在がいなけれなならないことに気づいている。だから、その切磋琢磨でここに集まる面々をピカピカにしてくれるのだ。

初志貫徹

学校はグライダー人間の訓練所。飛行機人間は創らない。グライダーの練習にエンジンのついた飛行機などが混じっていては迷惑する。危険だ。学校ではひっぱられるままに、どこへでもついて行く従順さが尊重される。勝手に飛び上がったりするのは規律違反。たちまちチェックされる。やがてそれぞれにグライダーらしくなって卒業する」という名言がある。
このことは要するに、学校の生徒は先生と教科書にひっぱられて勉強する。いわば、自力で飛ぶことができないグライダーと同じ。独力で知識を得ているわけではない。それ故、いくら優秀なグライダーで卒業して社会に出て、なんでも自由に好きなようにやっていいと言われても、飛行機のようにエンジンがないので途方に暮れるだけ。つまり、目標がハッキリしているところでは、グライダー能力は高く評価されるけど、新しい文化を創造には飛行機能力が不可欠になるのだ。
 美術の世界も同じようなもの。美術大学を目指して画塾で学び、大学では様々なことでひっぱってもらえるけど、卒業してしばらくすると自力ができずに休眠状態になる人が多い。もちろん、働きながら創作することは厳しい。簡単にはできないことは重々承知している。しかし、エンジンのある人はチャレンジし続けていることも事実。だから、最初から自分で翔ぶことを意識しなければ、いつまでもできないままでいるだろう。