名将・岡田誕生の日

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1992年9月。この年の阪神はヤクルトや巨人と三つ巴の激しい優勝争いをしていて、
11日から甲子園球場で首位ヤクルト直接対決3連戦は1.0差ゲームの3位で追っていた。
試合は阪神・中込、ヤクルト・伊東の先発で始まり、両軍譲らないまま3-3の同点のまま試合は
9回裏まで進み、ツーアウトからパチョレックがヒットで出塁して続くバッターは八木。
八木は期待に応えヤクルト岡林から打った大飛球はレフトの頭を越えてスタンドに入り、
サヨナラホームランと思われたが、ヤクルト外野陣と野村監督がラバーフェンスに
当たって入ったと強く抗議して判定は覆って本塁打エンタイトルツーベースになってしまった。
(ちなみに八木の打球は本塁打で誤審だったことを2塁審だった平光は引退後の著書で書いている)
結局、阪神は続く新庄が敬遠され、二死満塁のチャンスが生かせずに延長へ進み、
その後岡林を打ち崩すことができず6時間26分に及ぶ死闘は延長15回引き分けで幕を閉じた。
この時、阪神・中村監督は「この引き分けはどうってことない」と気にせず、
翌日からの2試合を連勝して首位に立ったが終盤息切れをして失速し、
逆に後日の野村監督はシーズンを振り返った時にこの戦いが引き分けられたことを
優勝への要因と位置づけていて、勝負へのこだわりの違いが結果を大きく変えたことを教えられた。

そんな忌々しい誤審で流れが変わった思い出を持つ自分にとって、
7日の首位決戦で岡田監督が誤審にもめげずに見せた勝負への執念は感動的でした。
9回裏の大ピンチに就任以来初めてマウンドに向かって久保田に
「打たれろ、ムチャクチャしたれ、と言ったんや。それしかないやろ。
お前の責任やない、おれが責任とる言うたんや」。
という言葉には、この試合に懸ける想いが凝縮されて、
星野SDのカラーが強く残っていた阪神を一気に払拭して、
選手もファンも岡田色に染められた。
そう、これはもしかしたら球史に残る名将が誕生した瞬間だったかもしれない。
だったら、そのことを刻むためにも優勝をして我々を証人にして欲しい。

岡田監督の座右の銘は「道一筋」
虎の優勝への道一筋だ!!!