美術家

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いわゆる美術家とは、美術によって感性で感じる何かを表現しようとする人のこと。もちらん、そこには人に美術によって伝えたくなる何かがあるからで、心の中に浮かんでくるものを言葉ではなく、個性的な世界観によって表現しようとする人のことだ。

さらに作品売買による収入のことはさておき、「美術」+「家」と書かれるように、職業として認められるレベルに達しなければならない。普通の人でもできそうな稚拙なレベルでは、「これが仕事です」と言ったところで通用しない。誰もが心のどこかで感じていることを、独自性のある作品に創り上げること。今感じていることを、自分らしい視点で表現することが求められる。

ただし、その時に作品として表現したいものは、その時々で変わってくるもの。今はこれでいいと思えるようになれば、本当にこれでいいと言えるのだろう。つまり、自分がこの瞬間に何を感じているのかが具体的にわかること。好奇心のアンテナの感度が良い人のことを美術家というはずだ。あとはそれを実際に表現するために努力をしていけばいい。作品は毎日こつこつさえやっていけば必ず上達していく。心に浮かぶイメージを鮮明にできるように、創作の本質を乱す雑念は捨てて、胸の中を真っさらにしていこう!

目標

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イタリア彫刻家 ミケランジェロの言葉に「最大の危険は、目標が高すぎて、達成出来ないことではない。目標が低すぎて、その低い目標を、達成してしまうことだ」がある。

たしかに創作活動を続けていくために、どのような目標を設定するのかは意外と難しいもの。あまりにも現実離れし過ぎて、実現不可能のような雲の上でも駄目だし、かと言ってハードルが低いとすぐにやれて、もう大丈夫と慢心して努力しなくなってしまう。だから、その人にあった、その人のための、その人らしい目標なんて、そうそう簡単には見つからないだろう。そういえば、松陰先生も「志定まれば、気盛んなり」と言われるくらい、これをやるのだと具体的な目標が定めることは、人生の命運を左右する重要なテーマなのかもしれない。

ちなみに臼杵万理実さんの目標は「毎日、絵を描くことができる人生」だと思う。なぜなら、彼女は美術以外の世俗なことに、そんなにも興味を持っていない。普通と言ってくらいはあるけど、結局は作品制作することが第一の生活で、いつの間にか創作の世界へ没頭していく。ただただ大好きなことに夢中になって、大変なことも多いけれど、大好きな絵を描くことが最高の楽しみだ。つまり、平凡なことをこつこつと力まずにやっていくだけ。すなわち平凡が非凡なるまで頑張っているのだ。彼女はとても簡単なことであり、とても難しいことを続けられる生活を望んでいるのだろう。

おとな勉強

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昨朝、NHK総合の情報番組あさイチの特集は「人生を変える!今こそ、”おとな勉強”」。今、書店では大人向けの勉強本は年間を通してよく売れ、通信教育産業はコロナ渦で受講者が50%アップと流行の兆し。一般的に学ぶということは、ただ単純に知識とスキルを得ることが目的に思われるが、実のところ、やったことへの達成感や成長への実感を感じて、ウェルビーイングという幸福感や生きがいに繋がって、人の感情がポジティブな状態になるため、興味のあることを学んで、やりがいを味わいたい人が増えているとのことだった。

たしかに、私も45歳からさまざまなことをあらためて勉強すると、それまでより日常の中で気付きが多くなったり、目に入ってくるものが広がって、いろんなことを多面的に感じられることが増えている。意味が分からず見過ごしていたものや無関係だと考えていたものに、いつのまにか近づいて面白さを発見できるように感覚が身についた。

ちなみに勉強する切っ掛けは臼杵万理実さんとの出会いに始まる。彼女がギャラリーに出入りして話していくうちに、もう少し円滑に語り合うための言葉を知る必要性を感じてしまう。また、にわか知識ではなく、正しく言えないと面目が保てず恥をかくため、学ばなければと思うようにもなった。それ以来、自分なりにいつも何かを学ぼうと創意工夫をしながら日々を過ごしている。ほぼ毎晩、本は読んでいる。子供の頃から勉強嫌いだったのに、こんな風になるなんてお釈迦様でも気づくまい。そういう意味では彼女は大の恩人なのかもしれないな。

場所

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「大切なのは、場所を変えるのではなく、自分自身が変わること」と言う名言がある。

ギャラリーという場所には、美術家をはじめ、美術ファンから一般の方々まで、趣味や好みが違った、さまざまな人たちが集まってくる。いろいろな作品展ごとに異なるものと関わり、それなりに美術作品と感性で触れ合う力を養い、豊かに感じるためのセンスを前向きに刺激していく。なにかを学ぶというより経験値を増やして視野を広げよう。自分らしい見解で思考するために、場数を踏んで度胸をつけることが大切になる。

だから極端に言えば、ただギャラリーの中にいるだけでいい。なんとなく美術作品を目の前にすると、想像するためのコツのようなものが掴めるはず。なにかを取っ掛かりにして、自分なりに面白がったり楽しんだり、とにかくその人の個性的な発想を育むための空気を吸い込んで欲しい。いろんな作品が受け入れられるように、自分の器を広げることをモットーにすれば、新しいことを身に付けやすくなるだろう。

褒め言葉

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「創造性は繊細な花のようなもので、褒めることで花開く。反対に落胆させると、つぼみのうちにしぼんでしまうことがある」という名言がある。

いわゆる作品を褒めることは意外と難しいもの。いくつも取り上げると言葉の響きは薄れてしまい、相手の心にインパクトが残りにくい。また、適切なタイミングで伝えることも重要だ。成長している美点を見逃さないこと。これまでより良くなったと感じたら、きちんと褒めることは褒めて、創作意欲を高めてやること。変に良い人になろうとせず、本当の理解者になることが大切だ。

つまり、応援するつもりで褒めたいのなら、作品の表層的なものだけではなく、見えないものも想像しながら励ますこと。とにかく、どんな作品でもその人らしい個性的なものが存在している。作者自身が見逃している美点を見つけ出し、それを肯定することで新たな勇気を与えていく。いいと思うところを一所懸命褒めて、作品を一緒によりよくしようと共感できればそれでいいのだ。

長所

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学校で習ったことを上手くやれること。いわゆる成績がいいや規則が守れることは、頭がいいと評価されるための大事な要素。しかし、それがそのまま卒業してからも、同じように評価されるほど絶対的なものではない。その人が進んだ世界で能力を発揮して、さまざまな形で社会に役立ち、なにかの一員になれた時に、頭がいいと言われるようになるのだろう。
つまり、この場合の頭とは、ひとつのことを統率すること。言い換えれば、自分を自分でコントロールできること。自分らしく生きればいい。例え仕事や学問などの分野でなくてもいい。他の人にすれば大したことではなくても、小さなことでも支え合えることができればいいのだ。本人にとって重要なことをやって、社会に適応していくことが大切になるのだ。
ところで、臼杵万理実さんの長所と言えば、不思議な世界観を創り出すことと、それによって観る人と仲良くなろうとすることだ。このことは幼い頃からまったく変わっていない。自分にとって楽しいと思うことで、楽しませたい思いが第一にある。周囲の人たちと絵で繋がって喜ばせたい。そういう姿勢が作品に乗り移って親しみを感じさせる。だからこそ、目に見えないものを大切にすること。よくわからないことでも、辛抱強くこだわっていって、感性を豊かなものに磨いていこう。

正誤

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来週の金曜日から3日間ほど、県美展応募作品の搬入が始まる。前年度は新型コロナ感染症の影響により、直前で初めて中止という苦渋の決断をくだした。それだけに照準を合わせて作品制作をする美術家にとっては、なんとも待ち遠しい気持ちでいっぱいだっただろう。私も負けないくらい街に待ち焦がれて、どのような作品が選出されるのかが本当に楽しみである。

とにかく、ここに出展された作品に優劣なんてものはない。その人なりにベストを尽くせばいい。それだけで挑戦した価値がある。公募展は純粋に自分自身の力を知るための手段。受験テクニックのように傾向と対策を練って、入賞入選したところで自己満足以外に、何の意味も生まれないだろう。美術の評価に絶対はない。だから、思いっきり自分らしい個性で挑戦していこう。

とは言うものの、近しい美術家の動向が気になってくる。どういう風になるのかは、とても楽しみだったりするし、心配なことだったりもする。私はいつも目先のことに捉われないように心がけている。なぜなら、実力よりも時の運によって結果は左右されやすい。言い換えれば、その年に審査員のハートを射止めた運のいい美術家が大賞になる。つまり、自分の面白いと思う感覚を試す場だと割り切って臨むことが大切になるのだ。