禅那

とは仏教の一つの宗派である禅宗の教えや思想のこと。その特徴は「禅即行動」で、学問として経典を学べばいいのではなく、身体で実践しながら体得していくもの。また、どんな人でも仏になる資質があるので、厳しい修行を重ねて煩悩などを払い、一点の曇りもない本来の姿(仏性)に出会えるとしている。

それ故、日常での行動すべてが修行として取り組むこと。いつも心を込めて行動すれば、精神も身体も鍛えられて、主体的でありながらも、何にもとらわれない境地に近づけていく。つまり、修行僧のようなことまではできなくても、日常に修行のエッセンスを取り入れれば、生活リズムに適度な緊張感が生まれ、五感が研ぎ澄まされて人生を豊かに感じれるはずだ。

ところで、このたび開催した川部那萌さんの写真作品展は、おかげさまで無事にお開きできました。有形無形の応援に心より感謝いたします。誠にありがとうございます。

 川部さんは、単焦点レンズのカメラという、ズーム機能がないものの、足で稼いで構図を決める手法で、日常の景色にある奥深い世界を写しだし、私たちに新しい発見と味わいを楽しませてくれました。この春に社会人になるため、しばらく個展はできませんが、グループ展で作品発表してもらうつもりです。どうかこれからも川部さんの創作をご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします!

万理一空

宮本武蔵五輪書の中にある「万理一空」とは、「万理」は非常に遠い距離のことで、「一空」は一つの空を指し、本来は「どこまでいっても世界は一つの空の下にある」という意味だったが、転じて、一つの目標に向かって努力していくことを奨励する時に使われている。

2009年1月、県立大学4年生だった臼杵万理実さんと知り合う。当時、彼女は自分が思うような作品制作が上手くできなくて悩んでいた。それは技術やセンスなどの能力の問題ではない。大学生になってから様々なアートに触れて、急速に見聞が広がっていったことで、自分の小ささに気が付いてしまい、これから美術をやり続ける自信を失っていた。いわゆる美術の世界の厳しさを知ったことで、何もかも虚しく感じて途方に暮れていたのだ。

そんな彼女ではあったのだが、ここでいろいろな人たちと出会い、いろんなことを語り合って、だんだんと自分らしさが磨かれていく。いくつもの偶然にもめぐまれて、個性は豊かに育まれていき、パフォーマンスは大きくなっていった。万理一空」ではないけど、美術の空の下でわき目も降らずに精進したことが実を結んだのだろう。そして、その懸命な後ろ姿で美術に夢見る若者たちを刺激し、やればできると創作意欲を高めてくれた。私のギャラリーで若い世代の作品展が多いのはひとえに彼女の功績があるからだ。この流れが途切れぬように、バトンをもらったら、あとは頑張るしかない!

我以外皆我師

いわゆる美術創作活動しようと思いついた人は、まずは学校へ行けばなんとくなると考える。なぜなら、どうやって必要なものを習得すればいいのかがわからないから。創作したいと思ったものの、どうしたら進められるのかが、見当がつかないのである。それ故に、学校へ行って様々なカリキュラムを受講し、センスや技術、知識などを向上させることが近道になる。おおよそのことを学んでいけば、美術の世界で生きていけると考えるのは、ごく当たり前の発想だと言えよう。

しかし、美術は学校で勉強することができることに限界がある。いろんなタイプの講義で感性を刺激してくれたり、作品制作の手段や方法を身に付けたとしても、それだけではまだまだ不十分で免許皆伝したことにならない。学校では提供されるものをこなしていけばいいが、学校を出れば、自分ひとりで何もかもやらなくてはならない。なんとしても美術創作活動をしたいという、積極性が身に付いていなかったら尻切れトンボになるだろう。

つまり、机の上だけで美術を学ぼうとしてはいけない。自分自身で意欲的に動くまわって、体験しながら感覚で身に付けること。ちょっとしたことでも馬鹿にしていけない。その小さなことが切っ掛けになることもある。日々、好奇心と探究心でやる気を燃やし、あらゆることにヒントを求めて生きれば、すべての人が先生になって学ぶ楽しさが味わえるはず。我以外皆我師をモットーに創作に取り組んでいこう!

切り拓く

人は誰も生まれる場所を選ぶことができない。神様の悪戯と言うべきことなのか、最初から恵まれることもあれば、あまり良いとは言えないこともある。だけど、それがそのままずっと一生なんてことはない。どんなに厳しい環境に生まれたとして、その人の生き方によって、大きく流れを変えることができる。

例えスタート地点ではハンディーを背負ったとしても、そこでできることを取り組んでやれば、いくらでも個性を活かした人生と巡りあえる。もし、上手くいかなかったら、それは現実の自分を無視して、未熟さや非力さなどを認めようとしないから。それらをしっかりと認めさえすれば、自分を改善して運を呼び込むきっかけになる。

だからまずは今の自分と実直に向き合い、よく知ろうとする姿勢こそが大切だ。自分が何者なのかが明らかになれば、上昇するために必要な判断基準が生まれてくる。それを踏まえて創意工夫と試行錯誤していけば、どんどん飛躍への確率を高められるだろう。つまり、人生は最初から決まっているものではない。自分で動かしながら発展させるもの。夢へ向かってワクワクし続ければ、いずれ運命を切り拓けるはずだ。

冒険

写真家 石川直樹さんのエッセイ集『全ての装備を知恵に置き換えること』(2005年9月発刊)の中に、私のハートをバーンとスマッシュする一節があった。
世界に地理的な空白がなくなった現在、私たちはこれからどこへ向かおうとしているのか。現代における冒険とはいったい何なのだろう。冒険なんてどこにでもあるものさ。そんなものは自分で生み出せばいいんだ。複雑なものから、よりシンプル、より純粋なものへと追求していく過程というのは全て冒険なんだよ」。
たしかに世界中のあらゆる地域と行き来ができる交通網が整備され、また、どんどんネット社会によって交流の輪が広がって、秘境と認定できるような場所はほとんど残っていない。どうしたら冒険と呼ばれることができるのだろうか?
川部那萌さんの作品を観ていると、そんな疑問は愚問であることが学ばされる。それはつまりこのような感じ。「身の回りの景色は宝物。日常をよくよく見れば、美しさや不思議さ、面白さがたくさんあって、立ち止まって深く味わえば、冒険と同じくらい、心をわくわくさせるものばかりですよ」。さすがに子供の頃から自然と戯れて育ったことで、小宇宙を発見するセンスに長けている。遠くへ行かなくても、良きものは近くあって、素直に楽しめばいいことを教えてくれるのだ。

千里の道も一歩から

千里の道も一歩から!どんなことでも手近なところから始めていく。今自分にできることを着実にこなすこと。夢や目的を達成しようと思っているのなら、時間をかけて手順を踏まなければならない。いくら急いでやったところで、にわかな能力ではすぐにボロが出てしまう。修練する時期には徹底的に基礎訓練を繰り返し、小さな努力でも根気よく続けてやれば、無限の可能性が生まれてくる。
それ故、自分の心に描く夢に挑戦するときに、もっとも大切なことは、本当に自分の能力でできるかできないかを考えるのではなく、何としてでもやりたい覚悟があるかどうかだ。先天的な素質よりも後天的な努力によって夢や目的を実現していこう。才能とは生まれつきあるものではない。最初は大したレベルでなくても、本気になって取り組んだら研ぎ澄まされていく。
つまり、人生はなにごとにも果敢に挑戦した方がいい。何かに興味を持って夢中になって打ち込めば、個性的な感性が磨かれるだけではなく、自分の殻を打ち破って潜在能力も発揮できるようになる。人の能力には限界はないのだから、太古の歴史から受け継がれた遺伝子を燃やし、自分らしく頑張っていきましょう!

学ばなきゃ

いくら素質があっても、やる気があったとしても、自分ひとりだけで才能を開花することはない。自分では上手くやっているつもりでも、一方向からの発想では部分最適になりやすく、いつの間にか独りよがりになることが多い。自分の価値観や経験でしかものごとを判断せず、思い込みや先入観によって偏った見方をしてしまう。
だからこそ、自分の可能性を発展させるために、積極的にさまざまタイプの人たちと関わり、自分自身を見つめ直す機会にしてみよう。ダイヤモンドはダイヤモンドでしか磨かれないように、人は人と関わり合いながら才能を磨き合っていく。いろんな人から気付いていないことを教えてもらい、自分らしい個性として伸ばしていくことが大切なのだ。

ところで、ただいま個展開催中の川部那萌さんは大学生ということもあって、来場者から何か知らないことを教わるたびに喜んでいる。生の声はいろんなことを考えさせられ、かつ、異なる視点は学びのヒントになるから、小さなことにも耳を傾けている。実に熱心で、好奇心と探究心が豊富なのだろう。おかげで傍からその姿を見ていると、こちらも学ばなきゃという気持ちになる。私の方が磨かれているのかもしれない。