山林に自由存す

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昨日、国木田独歩生誕記念公募展で入賞した友人のエッセイが載った新聞を読んでいるうちに、ふと、小学校中学年の自由研究で独歩を取り上げたことを思い出す。たしか校区内にあるものというお題のもと、定番の名所史跡ではなく、亀山公園の詩碑について発表したのだった。ちなみに小学生らしくない選択肢になったのは、母の入れ知恵があったから。みんながやりそうもないものをやりたいと言ったところ、「私の高校時代に建った詩碑がいい」ということになり、家にあった本などを見せられて、さらに大筋の文章も考えてくれたのだ。おかげで、なにも身につかないまま。やはり他力本願では成長はしない。

だから、自分ひとりでやるべきだった。誰かに依存しては毒にも薬にもならぬ。当時のことを振り返って、ひたすら反省させられる。そこで、彼のエッセイを初心にかえって何度も拝見すると『いまになって「武蔵野」を読み返してみると、独歩が山林に「自由」を感じたわけがわかったきた。落葉する広葉樹の林からなる広大な武蔵野は、松などの常緑針葉樹が主に風景をつくる瀬戸内とはちがった趣である。新緑から紅葉、落葉へとうつろう四季の林の様相の変化に、独歩は美と魅力を感じ、更には「自由」も感じとったのだろう』という一節がググっと胸に突き刺さってくる。

そうだったのか、あの亀山の詩碑「山林に自由存す」という謎の暗号にしか思えなった言葉が腑に落ちた。約50年かったけど、自分なりにわかったぞ!ロマンチックな風景に心を寄せて、それらを豊かな気持ちで楽しんでいくと、自由な想像力を満喫できると言いたいのだろう