かつて、KYという言葉が流行ったことがあった。これはK=「空気」、Y=「読めない」で、空気が読めないという意味で用いられる。その場の雰囲気や状況などを察する能力に対する言葉。この時代、空気の読めない異端児に対して使われて、どこか見下したような表現として重宝していた。私はKYと言われると個性豊かな人たちと出会い、日々、彼らと真摯に向かい合って切磋琢磨していたため、なんだか個性を小馬鹿にした印象が拭いきれなかった。まったく馴染めない言葉として冷やかにみていた。
それから幾年の時が過ぎて、今現在は「KY」という思想が定着してきた。人それぞれが自由に考えて、行動して来たことを捨てて、これが社会の常識だと言われることになびき、そのことに染まる人が増えてきたように思う。孤独に生きること、自分らしく生きること、そんな人間の基本的な理念より、多数派で生きること、自分の意見や主張を殺しても、みんなと一緒がいいという風潮になってきた。ネットで調べたら何でもわかるという幻想に陥って、自分の頭で考えることをやめて楽に生きているのかも。日本の文化でKYは大事な伝統文化。ただし、今はそのボタンのかけ違いなったと感じてしまう。目を覚ましていこう!我思う、故に我あり。目の前にある様々な現象に振り回されずに、自分しか出会えない現実を噛み砕いて生きよう!