マイペース

画家 熊谷守一の著書に「二科の研究所の書生さんに『どうしたらいい絵がかけるか』と聞かれたときなど、わたしは、『自分を活かす自然な絵をかけばいい』と答えていました。下品な人は下品な絵をかきなさい、ばかな人はばかな絵をかきなさい、下手な人は下手な絵をかきなさい、そういっていました」という名言がある。

人はなぜ美術家に憧れると言ったら、好きなことで生きていけるから。しかも上手いレベルになれば、それなりに多くの人に評価されて、収入も得ることができる。ただし、上手いという基準はとても曖昧だ。構成力や技術力を基準にすればいいわけではない。その人だけの個性を磨いて活かさなければ、上手いとされる域にに辿り着くことない。

ところで、来週の18日(木)より個展を行うレ昇るさんは、何気ないものを見ては面白がっている。ピンとくるものなら分野を問わず、なぜそれがいいのか仮説を立てて、自分なりの切り口で図っていく。このまま美術の知識が乏しさを武器にして、いつまでも学ぶ精神で挑戦すればいい。そうすればマイペースのまま、楽しく続けることができるだろう。

個性を磨く

岡本太郎の著書に「ぼくのコミュニケーションに対して、賛成でも反対でもいい、応じてくれる人全部が、ぼくの友達だ」という名言がある。

その昔から美術作家と会って話してみれば、個性的な思考や感覚をしているので、一般社会の人たちにとって、普段では味わえない会話を楽しむことができる。いわゆる同じものを見たとしても、視点がほんの少しずれているだけで、まったく違った個性を見つけ出して、その思いもよらない独自性のある見解に心ときめかすことが多いからだ。

つまり、規格外の発想力の持ち主と語り合うと、新しい見識を得るチャンスになる。いつの間にか常識に飼い馴らされている頭脳に刺激を与えて、柔らかくしなやかなものへとしてくれる。だからこそ、美術作家は独創的な個性を持たなければならない。めぐり合う人々に豊かさを与えるために、いつも意識して個性を磨き続ける努力が必要だ。

ひっそりと

東京か、パリか、ニューヨークでなくてはという考え方は昔日のものだと思っている。これはあくまで私の年齢で言えることで、若い人はそうでなく、別の考えを持っているかもしれぬが、私は私のことだけを考え行動に移せばよいのである。今からなおさらそんな時代になると思う。 1967年7月24日 香月泰男

今年の1月に山口市ニューヨークタイムズの「2024年に行くべき52カ所」の3番目に選ばれる。どういうポイントが良かったのかはわからない。だけど、この街は変によく見せようとしなかったり、やみくもに流行を取り入れなったことで、昔ながら日本文化の雰囲気が残っているため、そのことが豊かな魅力として高く評価されたのだろう。

つまり、人の手の入っていない田舎ならではの美しさを称賛される。都市開発されなかったことと、伝統的な文化が随所にあることが魅了になったのだ。やはり自然体で生きられる場所は楽しい。自然の中で伸び伸びと心地よく過ごせることは、人工構造物に囲まれた都会では味わうことはできない。ごくありふれた景色の中にひっそりと幸福は隠れている。

 

若木の下で笠を脱げ

先週、この春に大学へ進学する若者とひさしぶりに出会う。おぉ、顔つきは幼さが抜けはじめ、微妙に大人っぽくなって、背の高さはいつの間にか抜かれてしまった。10数年前に知り合った頃は小学1年生だったから、身心ともにすくすくとよく伸びている。この調子でしっかりと生物学を勉強して、社会の一翼を支える人になって欲しい。

そんな彼にせん別の品を渡す。県外で初めて一人暮らしすると聞いていたので、萩焼のマグカップをプレゼントした。その値段は決して安くはない。そのためか少し戸惑った表情を見せた。そこで「普段の意識が高まると感性は磨かれるから、すぐに壊してもいいから使ってください」と言って、手の触覚を鍛えるという意図を伝えたのだった。

とにかく学校のことだけ勉強すればよかった高校時代とは違い、いろんなことにアンテナを張って、自分なりに観察して考えることが大学生の使命だと思う。答えのある課題とのやり取りから、答えのない課題のやりくりへチェンジするから、どんなことでも自由自在に使いこなせる感覚を養うべし。必要なものはすべて今ここに感じるしかないのだ。

さくらさくらさく さくらちるさくら

「さくらさくらさくさくらちるさくら」とは漂泊の俳人 種田山頭火の句。これは要するに「桜、桜、咲く桜、散る桜」と漢字を使って表記すれば、言いたいことはハッキリとしてくる。そこをあえてすべて平仮名にすることで、暗号のような不思議な感覚を醸し出す。それと「桜」より「さくら」の方が春のやさしい温もりをじんわり感じさせる。

おそらく山頭火は桜の花が咲いたことに喜ぶ人たちの姿を見ながら、咲くにしろ、散るにしろ、みんなの心を揺さぶる愛しさと切なさがあることを称えたのだろう。それとも咲いては散る桜の運命で、かと言って花が咲いていない季節にも、桜は生きているからこそ、太い根っこや支えとなる大きな幹、伸びる枝たちに心を寄せたのかもしれない。

いずれにしても、意図がよくわからないから実に面白い。この句を詠んで感じたことを、なんとでも解釈できる抽象性が素晴らしい。まっさらな心で、思い込みや先入観に縛られずに、常に見方を変えて楽しめばいい。つまり、今ここに精一杯咲く桜の花のように、一期一会の豊かな文化を大切にして、今この瞬間の出会いを堪能していこう。

噓も方便

ことわざにある「嘘も方便」とは、仏が現世で苦しみ悩んでいる人たちを救済し、悟りへと導くための便宜上の手段として嘘をつくこともある。そのことを踏まえて、教えを乞う人をより高い境地に導くための嘘なら許容範囲。いわゆる大きな善行の前では、ある程度の嘘も認められるという意味を指す。

ちなみに私のモットーは美術家を目指す人と対話する時に嘘をつかないこと。言い換えれば、自分がその時に感じていることを正直に話して、その反応によって付き合えるどうかの判断していく。気を遣って甘いことを言ったり、その場しのぎで調子良いことを言っても、本気で付き合える関係は築けないから、あえて本音で語り合うようにする。

そして、親しい関係になることができれば、時には「 嘘も方便」で励ますこともある。もちろん、あなたには才能があるから大丈夫なんてことは言わない。なぜなら、みんなその人にしかない才能がある。それゆえ「もう少し頑張ったら大丈夫!」と言うだけ。もっともっと努力すれば、誰でも個性を活かせる世界。つまり、嘘かどうかはその人次第。正直に生きれば、なんとかなるはずだ。

初心忘るべからず

「是非の初心忘るべからず。時事の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず」という世阿弥の名言がある。

これは始めたばかりで未熟だった芸を忘れず、それを判断基準にして技量を磨いて向上させていく。また、その年齢にふさわしい芸にするために、これまで体験していないことに挑んで、新しいことへの緊張感を忘れずにトライしていこう。そして、長きにわたり取り組んできたことでも、その老年期になって初めて行うことだと自覚して、ベテランだから大丈夫だとか、もう極めていることだと自惚れていけないという意味である。

昨日、今月個展開催のレ昇るさんが参上。万全を期して早めに作品を持ち込んでいただく。とにかく、先月末まで堅気の生活をしていた方が、いきなり美術家デビューなんて、前代未聞の出来事だろう。ただし、運がいい!なぜなら、今は江戸から明治になった頃より世の中が変わったから。要するにみんな一から新しくやるしかない。御年65歳の正真正銘のルーキーにとって、リセットせずに創作できることは武器になるだろう。