インスタ映え歳時記

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先週末、友人といつものように話していたら「ウチラの若い頃もインスタ映えと同じようなことがあったよね」という話題で盛り上がる。なるほど、たしかにブランド服を着飾った人や車にこだわって大枚を叩いた人もいたし、お洒落なレストランで食事を満喫する人など、一芸だけの見た目重視派はたくさんいた。つまりインスタ映えと同じで、パッと見た目の雰囲気を楽しむために、映画のワンシーンのような振る舞い、同化していくことにすべてを捧げる文化があった。おそらく江戸時代の伊達男じゃないけれど、これは半端じゃない昔からこのような現象はあったはず。それだけいつの時代も人は見た目に弱いのだ。

ただし、無駄なようなものを楽しむことが人生の醍醐味だ。他人から見たら馬鹿馬鹿しいことでも、その瞬間は本気に好きになって取り組み、熱くなれるかどうかによって、こころ豊かに生きられるかどうかが決まってくる。例えるなら、絵を描くことに夢中になっている子どもに「将来は画家になるの?」と尋ねることはナンセンスだ。せっせと絵を描いている子どもにとって、それ以外に大切なことなんてないのが当たり前。だけど、そのまま大人になっても好きだったら、やりがいはあったとしても、過酷な人生になるのは間違いない。

それはさておき、にわかであろうと興味が生まれたらチャンスだ。どんなに素晴らしいものでも、写したら終わりでは人生の1ページは刻めない。好きになるとは訳もなく関心を持つこと。スタートがインスタ映えであってもいい。人よりもすぐれたショットを写すために、無償の好奇心を持つことで繋がっていく。あからさまに美しく輝くものを捨ててしまうのは消費社会の亡者だ。流行っているものしか興味の持てない人は、もう1回、子どもからやり直した方がいい。人生はやっているような振りをしても意味はがない。好きになってやらずにおれないになって、さらに自然にやっちゃっうクラスになること。いつの間にやってしまっているレベルに達することなのだ。