芸術論の覚え書き

昭和9年(1934年)、詩人 中原中也は第一詩集『山羊の歌』を出版して高く評価され、また、私生活では長男が誕生して幸せの絶頂に達していた頃に、山口へ帰省した際に書かれたと言われる「芸術論覚え書き」。「『これが手だ』と、『手』といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい」など、中也が表現しようとした世界を端的に示して、創造へ向かう出発点になる言葉で書き綴っていった。
例えば、悲しみと口に出す前の悲しみとか、好きだと言う前の思いとか、胸の内に秘めていた感情は清らかなもの。これが言葉にすると、その感情はこの世のものになってしまい、無色透明で純粋さが失われる。中也はこの言葉になる前の世界を名辞以前と言い、この世で初めて生まれた言葉で詩を表現することを目指す。誰でもみんなが使う万能の言葉ではない。独創的なリズム感のある言葉に潔癖こだわっていく。詩は本当は言葉の向こうにあるという感覚を大切にして、どこまでもストイックな姿勢で探し求めていった。
つまり、中也が詩で表現しようとすることは、あらゆるものを名辞以前で感じ取るという、いわば無謀だと言える試み。誰もが普段の生活で使っている万能な言葉ではなく、今まさに生まれたばかりのフレッシュさで、オリジナリティのある専用の言葉を使っては、自由な感覚が響き渡る世界観へ挑戦していった。だからこそ中也の詩の言葉は、今の時代になっても強いインパクトがあって、熱い創作への情熱が胸に迫ってくるのだろう。