五十歩百歩

故事がもとになって生まれた五十歩百歩。その意味は、一見は違うように見えても、ほとんど同じで変わらないこと。似たりよったりしていることを言う。しかし、実際ところ五十歩五十五歩ならともかく、五十歩百歩はそれなりの差が生まれてくる。そもそも倍の歩数なのだから当然のこと。だのに違わないとするのは、大きな視野に立って見れば、まったくその通りのことで、すぐそこくらいの距離でしかない。お互いに同じ方向へ進んでいる時は、その差が決定的な差になることはないのだ。

ところで、私が20代だった頃、一風変わった価値観を持つ若者たちを新人類と呼んでいた。古式ゆかしき伝統文化には距離を置き、バブル景気も追い風にしていって、目の前の地道な努力するよりも、今日を謳歌し、夢中になって生きていく。だけど、今から振り返れば、そんなに大きく世の中からはみ出していなかった。ハチャメチャそうで、ほとんどはギリギリセーフ。まだまだ大人しかった。それだけ世の中が安定していたから、馬鹿なことをし過ぎたら大損で割に合わない。いわゆる五十歩百歩の範囲で収まることが多かった。

それに比べて令和の若者はユニークそのもの。たった一歩の違いを活かす。堂々とマイノリティー(少数派)として、自分らしく個性を豊かに生きる。世間様の顔色は窺わない。良くも悪しくも自由に生きられる。それ故に、自分に都合の良いことばかり主張する面々もいる。自分が信じるものだけが正しく、それ以外は間違いだとするのはよくない。これだけ多様性に富んだ時代。いろんなものを受け入れて、尊重することで成長へ繋げていく。人類の歴史という大きな視点から見れば、みんなそんなに差がない人生なる。ぼちぼちと生きれば、それだけで十分なのだ。人と比べず、マイペースで、今日の一歩を大切に生きよう。