運命の糸車

1968年、ヌマさんは創設したばかりの山口芸術短期大学へ入学。美術世界への第一歩を踏み出す。多くの仲間たちと知り合うとともに、県美術界重鎮の三好正直先生ともめぐり合い、ヌマさんの運命の歯車を大きく動かした。なぜなら、翌年の春休みに三好先生から学校へ通いながら、田中米吉先生の彫刻制作の助手をしないかと持ちかけられる。

実はこの時米吉先生は仕事と創作の二重生活の無理がたたって、右眼を失明寸前まで悪化させたところに、悲願の現代日本彫刻展(宇部市)へ出展が決まり、制作を手伝う人材が求められた。そこでヌマさんが能力を見込まれて抜擢されて、卒業するまで間という約束だったのに、それから約52年間に渡ってそばで支える人生になったからだ。

ちなみに三好先生の眼力は素晴らしいもので、中学美術教員だった足立明男先生(元YCAM館長)を県立美術館準備室に招聘するなど、数多くの人を適材適所に配置させて、県美術界を大いに活性化させていった。だから、ヌマさんもその門下生だと言えるはず。それ故、葬儀の後に米吉先生の奥様が「ひとつの時代が終わった」という何気ない言葉に、良くも悪しくも時代が変わることを予感させられた。