カタカナ

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ここ最近、スポーツ番組を見ていると、チームプレーの連携が上手くいかなかった場面で、完成度を高めるために調整した方がいいという意味で、「アジャスト(adjust)」がよく使われるようになった。特にスポーツニュースで、短い時間で振り返って解説する時に、たった一言でほころびを指摘できるため、伝家の宝刀として大いに役立っている。

しかしながら、こんな淡白な言葉でゲームのクライマックスを語られたらたまらない。当事者である選手たちにとって不本意なことだろう。いわゆるプレッシャーがかかる場面だから緊張し過ぎて失敗したり、相手の方が一枚上で、最善を尽くしても駄目だったりするなど、そこにある人間ドラマを打ち消す、曖昧な言葉で形容するのは個人的に好感が持てないのだ

「ダック ドッグ ダクン チエン ダン デン ピー ・・・・・ フー ・・・・・ ポドー ・・・・・ 弁当箱がぬくもる 工場の正午は鉄の尖端(せんたん)で光が眠る」というのは、詩人 中原中也が17歳に書いた作品だ。なんともよくわからないカタカナ表記に目が奪われて、思わず何が言いたいのかを想像してしまう。カタカナの持つ不思議な抑揚にイメージは膨らみ、何か面白そうなことがあるような雰囲気に包まれてくる。つまり、目に見えるものの中にある、目に見えないものを表現するのなら、カタカナというものはとても便利なもの。詳細に説明しなくても感性を刺激して、一番伝えたいことを感じられてくる。その一瞬の凝縮したドラマを感じさせ、やさしくくすぐって解凍していくのだ