茗荷

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昨日、NHKの情報番組「あさいち」は夏野菜の特集。その中で「茗荷を食べると物忘れがひどくなる」という俗説の由来について解説があった。これはある非常に物覚えの悪いお坊さんが天に旅立った後、その墓から茗荷が生えてきたためだとされている。ちなみに茗荷の名前の元になったお坊さんは周利槃特(しゅりはんどく)。とにかく物覚えが悪くて、自分の名前すら覚えられない。これをあわれんだお釈迦様が名前の書いたのぼりを与え、もし名前を尋ねられたら、のぼりを指差しなさいと言い、さらに後日、今度はほうきを渡して、「ごみを払おう、ちりを除こう」と唱えながら掃除をしなさいと教えたのだ。

それから雨の日も風の日も毎日一生懸命に掃除を続けていく。ただただひたすら「ごみを払おう、ちりを除こう」と唱えながら掃除をし続けていく。やがて何十年経ち、周利槃特は自分の心のごみやあかをすべて除き、「悟りを開くということは決して多くのことをすればいいのではない。わずかなことでも徹底すればよい。徹底して掃除をすることでついに悟りを開いた」と、お釈迦様にお言葉をいただいたという。

このお話しの実際のところはさておき、私はこの逸話を聴いて、ピカッと妄想がひらめてしまった。それは、人は自分の名前をしばしば忘れやすいもの。等身大の自分の名前に合ったものより、他人の名前(価値観)にすぐに惑わされてしまう。その人にはその人にしかない魅力があるのに、隣の芝生は青く見えて、いつの間にやら自分らしさから遠のいていく。いわゆる煩悩と呼ばれるものに憑りつかれて、出来そうもないことに執着してしまう。だからこそ「ごみを払おう、ちりを除こう」。自分の心の垢を流し、心のちりを除くことをし続けていく。自分の名前が美しく感じれるように汚れを落としてやるのだ。つまり、目の前のことをこつこつと取り組み、わずかなことでも徹底していくことで、自分自身の名前を好きになっていけるはずだ。名前という生きている証しをきれいにすることが大切なことなのだ!